半夏生に想う──季節の節目と、静かな祈りの時間

こんにちは。ミサゴパパです。

7月1日。今日は「半夏生(はんげしょう)」──あまり馴染みのない方もいるかもしれませんが、季節の節目として古くから日本人に意識されてきた日です。夏至から数えて11日目にあたるこの日、暦のうえでは「田植えを終える頃」「農作業を休む日」とされ、農村では神様に感謝し、空を仰ぎ、土地の恵みを噛みしめるような、そんな時間が流れていたのでしょう。

「半夏生」という字の響きもどこか風流で、まるで一句詠みたくなるような風情があります。草木が生き生きと葉を広げ、空の青さに夏の匂いが混じり始めるこの時期、自然の息遣いがいつもより近くに感じられる気がします。

また、「半夏生」といえば、同じ名を持つ植物「半夏生(はんげしょう)」も思い出されます。葉の一部が白く染まるその姿は、まるで初夏の装いにそっと白粉をさしたような、控えめながらも美しい佇まい。湿地を好み、静かに群生する様は、まるで時間がゆっくりと流れているようで、心がすっと整います。

西日本では、この日には「たこ」を食べる習慣があるそうです。たこは足がしっかりと地につくことから、苗が大地にしっかり根を張るようにとの願いが込められているとか。私も今夜は、たこの酢の物でも作ってみようかと思います。小さな風習にそっと寄り添ってみることで、日々の暮らしに少しだけ、奥行きと彩りが生まれるような気がして。

令和のいま、季節の移ろいを感じることが少なくなったとよく言われますが、こうした暦の一日を丁寧に味わうことで、過ぎていく時間の中にも「節目」という大切なリズムがあることに、あらためて気づかされます。

半夏生。夏の本番を前に、ほんの少し立ち止まって、呼吸を整える一日。そんな風に、この日を過ごしてみるのも悪くないかもしれません。

朝の空気は少し湿っていて、草いきれとともに土の匂いが鼻をかすめました。夏が始まる直前のこの感覚──どこか懐かしくて、胸の奥がぎゅっとする。ふと子どもの頃、田舎の祖父母の家で見た風景を思い出しました。畦道の脇に咲いていた半夏生の白い葉、用水路に流れる澄んだ水、遠くで響く蝉の声。どれもが鮮やかで、そして儚く、もう一度その中に入り込みたいと思っても、もう戻れない夏の断片。

そんな「過ぎ去る季節」を想う時間があること自体が、きっと豊かなことなのでしょう。

最近は、何かとせわしない日々が続きます。カレンダーに追われ、スマートフォンに縛られ、気がつけば季節が変わっている。だからこそ、こうした節気にふと足を止めて、「今、私はどの季節に生きているのか」と自分に問いかけてみるのも大切な習慣かもしれません。

半夏生の今日、私は小さな団扇を手に、台所でたこを茹でました。冷たい酢で締めて、青じそを添えて。口に運ぶと、ぷりっとした歯ごたえのあとに、どこか懐かしい潮の香りが広がります。それはたった一皿の料理ですが、確かに季節の命を感じることができるものでした。

日が長くなり、夕暮れの余韻が少しずつ深まっていくこの時期。蛍が舞うような空想を胸に、今夜は少しだけ、明かりを落として過ごしてみようと思います。エアコンではなく、窓を開けて自然の風を感じながら、夏の気配を楽しむ──そんな半夏生の夜も、悪くないものです。


追記として:

暦というのは、不思議なものですね。古代の人々が、空を見て風を感じ、草の芽吹きに耳を澄ませて作り上げた知恵の結晶。その中には、私たちがつい忘れてしまいがちな「自然とともにある暮らし」の感性が詰まっています。

半夏生も、そんな暦の中の一日。年に一度だけ、そっと季節に手を合わせるような、優しい日です。

半夏生 - Wikipedia
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