私たちは「見えている世界」を見ていない ―― 錯視が教えてくれる、思い込みという名のフィルター

こんにちは。ミサゴパパです。

「錯視(さくし)」と聞くと、どこか理科の実験やテレビのクイズ番組を思い浮かべる方も多いかもしれません。
同じ長さの線が違って見えたり、止まっているはずの模様が動いて見えたり――。
子どもの頃は、ただ「不思議だな」「面白いな」で済ませていたものです。

けれど、年齢を重ねた今、錯視を改めて知ると、そこには人生そのものを映すヒントが詰まっているように感じます。

錯視が起きる理由は、目が悪さをしているからではありません。
原因はむしろその逆で、脳がとても優秀だからです。
人間の脳は、限られた情報の中から素早く状況を判断するために、過去の経験や常識を使って「きっとこうだろう」と補正をかけます。
この補正があるからこそ、私たちは日常生活をスムーズに送れるわけですが、ときにそれが“見誤り”を生む。それが錯視です。

たとえば、有名な「ミュラー=リヤー錯視」。
同じ長さの線なのに、矢印の向きだけで長さが違って見えます。
脳が「奥行きがある空間」を勝手に想像してしまうからです。

これを仕事に置き換えると、思い当たる節はないでしょうか。
同じ成果でも、
「若手がやった仕事」
「ベテランがやった仕事」
というラベルが付くだけで、評価が変わってしまう。
中身は同じでも、背景や先入観によって“見え方”が変わるのです。

家庭でも同じです。
子どもの言葉を「まだ子どもだから」と軽く受け流す一方で、
自分の若い頃の失敗は「仕方なかった」と正当化してしまう。
これもまた、心の中で起きている錯視なのかもしれません。

錯視が教えてくれる一番大切なことは、
「自分が見ている世界は、絶対ではない」
という事実です。

人は、事実そのものではなく、
「事実をどう解釈したか」
を見ています。
そしてその解釈は、年齢、立場、経験によって大きく変わる。

50代になり、若い頃には見えなかったものが見えるようになりました。
同時に、かつては当たり前だと思っていた景色が、実は思い込みだったと気づくことも増えました。
それは衰えではなく、視野が広がった結果なのだと思いたいところです。

錯視は、私たちをだます存在ではありません。
むしろ、「あなたの見方は一つではないですよ」と、静かに教えてくれる存在です。

今日、誰かの言葉に引っかかったとき。
仕事で評価に納得がいかなかったとき。
家族との会話がすれ違ったと感じたとき。

そんなときは、少し立ち止まって考えてみてもいいかもしれません。
――これは現実なのか、それとも自分の中に生まれた“錯視”なのか、と。

世界は、見る角度を変えるだけで、意外と違って見えるものです。

錯視 - Wikipedia

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