ひとしずくの灯──老犬とおじいさんの四季

第一章 捨てられた犬と、ひとり暮らしの老人

 冬の朝の空気は、割れたガラス片のように鋭く冷たい。
 山崎源造(やまざきげんぞう)は、凍える両手をポケットに押し込みながら、いつものように近所の公園を横切っていた。七十を過ぎた頃から、朝の散歩は彼に残された数少ない習慣になっていた。かつて家具職人として働いていた頃は、毎日が忙しく、空をゆっくり眺める時間などなかったが、妻に先立たれ、娘も遠くに嫁いでからは、散歩だけが気を紛らわせる時間となった。

 その日の公園は、息をのむほど静かだった。霜をまとった落ち葉が踏まれるたび、細い悲鳴を上げる。それ以外には鳥の声もない。
 ふと、源造は足を止めた。ベンチの影で、何かが小さく震えている。

 最初は、捨てられた手袋か何かだと思った。しかし近づくと、それが生き物であることがわかった。泥で汚れた段ボール箱の中に、小さな茶色い子犬が丸まって震えていた。生後数ヶ月ほどだろうか。細い体は冷えきっており、目の周りは涙で濡れている。

「……おい、どうしたんだ」

 源造が声をかけると、子犬は一度だけ弱々しく尻尾を動かした。助けを求めているのか、ただの反射なのか判断はつかなかった。しかし、源造の胸には、何年も忘れていた種類の痛みが走った。
 妻が病を患った最後の冬のことを思い出したのかもしれない。あの時も、こんなふうに震えていた。人は、守るべき存在を前にすると、勝手に体が動くようになっているのだろう。

「こんなとこに置いていきおって……誰がこんな酷いことを」

 独り言が霜の白い空気に溶けた。
 源造はしゃがみ込み、ゆっくりと子犬の体に手を伸ばした。抱き上げると、驚くほど軽い。胸に寄せると、ぴくりと震えながらも、しがみつくように小さな爪が源造のコートをつかんだ。

「……仕方ない奴だ。うちまで来るか?」

 源造の声は、いつもより柔らかかった。子犬の耳はその声に反応し、かすかに立った。
 その瞬間、源造は“連れて帰る”という選択をしたことを自覚した。迷いなど、最初からほとんどなかった。

 自宅までの道のりは、普段より遠かった。胸の中で震える小さな命を落とさないよう、源造は何度も立ち止まり、温めるように抱き直した。
 家に着く頃には、子犬の震えは少し収まっていた。

 源造の家は、古い一軒家だった。妻とふたりで選んだ、ささやかな木造の家だ。家具職人だった源造が手を加えているためところどころ修理の跡があるが、丁寧に暮らしてきた証拠でもあった。
 しかし今は、家具の影がどれも寂しげで、家の空気は冷たかった。

「まあ、とにかく……温まれ」

 源造は電気ストーブの前に古い座布団を置き、子犬をそっと乗せた。子犬は恐る恐る体を伸ばし、じんわりと温もりを取り戻していく。
 やがて、安心したように小さく「くぅん」と鳴いた。

 源造は、その声に胸を打たれた。
 生き物が発する「生きたい」という願いの響きだった。

「腹、減ってるよな……ミルクでいいか」

 台所で手早くミルクを温め、皿に注いで置くと、子犬は匂いを嗅ぎつけ、ふらふらしながら近づいた。まだ足取りはおぼつかないが、一生懸命に舐める姿は涙ぐましい。
 源造はいつの間にか、その様子を微笑みながら見つめていた。

「お前さんも、大変だったな……寒かったろう」

 ミルクを飲み終えると、子犬はストーブの前に戻り、源造の足元に寄り添った。
 源造はその温もりに、思わず息を呑んだ。
 ここ数年、誰かの温もりを感じたことがなかった。娘は忙しく、友人は減り、妻のいなくなった寝室はぽっかりと穴が空いていた。

 なのに今、こんな小さな生き物が自分を頼っている。

「……まいったな。もう、うちの子にするしかないか」

 誰に聞かせるでもなくつぶやいたその言葉は、まるで家の中に久しぶりの灯りをともしたようだった。
 子犬はその声に安心したのか、源造の膝に顎を乗せ、目を細めて眠り始めた。

 源造はそっと、子犬の頭に触れた。柔らかい毛の感触が手に広がる。
 その瞬間、胸の奥の凍っていたものが、少しだけ溶けた。

「……よしよし。もう大丈夫だ。今日からは、わしが一緒じゃ」

 その言葉は、子犬に向けたものでもあり、
 源造自身に向けたものでもあった。

 こうして、ひとり暮らしの老人と捨て犬の小さな共同生活が、静かに始まった。

第二章 新しい名前と、ぎこちない共同生活

 翌朝、源造(げんぞう)は久しぶりに誰かに起こされた。
 枕元で小さな前足がとん、とん、と控えめに触れてくる。薄く目を開けると、昨日拾った子犬が、まるで「起きて」と言わんばかりに覗き込んでいた。丸い目の奥には、夜を越えた安心と、ほんの少しの期待が宿っている。

「……お前さん、朝から元気だな」

 源造は布団から体を起こしながら、思わず笑ってしまった。
 自分の部屋に他者の気配がある――そのだけで、ずいぶんと気分が違う。妻がいた頃の、何気ない朝の風景が少しだけ蘇る。

 着替えを終えると、子犬は尾をぶんぶんと振って源造の足元をついて回った。台所へ行くと、昨日のミルク皿の前にちょこんとお座りして待っている。

「はいはい、待っとれ。今やるからな」

 源造はまるで若い父親のような声で言い、温めたミルクと柔らかいドッグフードを用意した。子犬はそれを勢いよく食べ始め、しっぽを千切れそうに振っている。

「そんなに急ぐと、喉につまるぞ」

 口では注意しながらも、源造の頬は緩みっぱなしだった。

■名前を決める

 食事を終えた子犬は、満足そうにストーブの前に寝そべった。源造は椅子に腰掛け、湯呑みに入れたほうじ茶をすすりながら、その姿を眺めた。

「名前……つけてやらんとな」

 声に反応したのか、子犬が耳をぴくりと動かす。

「春みたいに、あったかくなれって願いを込めて……“ハル”なんてどうじゃ?」

 試しに言ってみると、子犬は立ち上がって源造のもとへ駆け寄り、足元に頭をすり寄せてきた。

「ふむ、気に入ったのか? ハル」

 “ハル”と呼ぶと、子犬はまた尻尾を振る。
 源造は胸の奥が、ほろりと緩むのを感じた。

「よし、今日からお前は“ハル”。わしの相棒じゃ」

■近所の少女・美咲との出会い

 その日の午後、源造はハルを連れて公園へ散歩に出た。ハルはまだ歩き慣れておらず、時折よろけながらも一生懸命前へ進む。その姿を、源造はゆっくりと歩調を合わせながら見守った。

 公園に着くと、小学生くらいの女の子がブランコを漕いでいた。
 彼女は源造に気づくと、ぱっと顔を明るくして駆け寄ってきた。

「あ、山崎のおじいちゃん! その犬、どうしたの?」

 少女の名前は美咲(みさき)。近所の商店街で八百屋を営む家の娘で、源造も何度か野菜を買いに行って顔見知りだった。

「昨日、公園で捨てられておってな。拾ってきたんじゃ」

「わぁ……かわいい! 名前は?」

「ハルというんじゃ」

 美咲はしゃがんで手を差し出す。ハルは最初は警戒したが、美咲の柔らかい声に安心したのか、そっと鼻先をつけた。

「ハルちゃん、よろしくね!」

 美咲は満面の笑みを浮かべ、ハルもつられて尻尾を振った。
 源造は、子どもと犬が仲良くなる瞬間の純粋さに、心が温かくなるのを感じた。

「おじいちゃん、また明日も散歩に来る?」

「まあ、来るつもりじゃよ」

「じゃあ、また会おうね、ハルちゃん!」

 美咲が走り去っていくと、ハルはその姿を名残惜しそうに見送った。
 源造はその横顔を見つめ、穏やかに笑った。

■商店街の人たちとの交流

 帰り道、源造は商店街に寄った。ハルを連れて歩くと、いつもより多くの人が声をかけてくる。

「山崎さん、新しい家族かい?」
「まあ、かわいい子じゃないの!」
「名前はなんていうの?」

 源造は少し照れながらも、「ハルじゃよ」と答えた。

 パン屋の未亡人・三浦ひさえは、ハルをひと目見て微笑み、店の前にある椅子に座って源造たちを眺めた。

「山崎さん、表情が明るくなりましたね。いいことです」

「そんなことないよ。たまたまじゃ」

 口では素っ気なく言いながらも、源造の声はどこかうれしそうだった。
 ひさえもその変化に気づいていた。

「ハルちゃんも幸せそうですよ」

 その言葉に、源造はふとハルを見下ろした。子犬は店の前で落ち葉を追いかけて遊んでいた。

「……まあ、そうじゃな。お互い様じゃ」

 三浦ひさえは静かに微笑んだ。

■ぎこちないけれど、温かい毎日

 家に帰ると、ハルは疲れたのかストーブの前で丸くなった。
 源造はその横で新聞を広げたが、視線はいつの間にか眠るハルへ向いていた。

「ああ……生き物がいるってのは、こうも違うもんか」

 呟きながら、源造はひとつ深く息をついた。
 以前は“ただの家”だった場所が、ほんの少しだけ“帰る場所”の香りを取り戻している。

 夜、寝る前に湯を沸かしていると、足元に温もりが寄ってきた。
 ハルが、またそっと源造の膝に顎を乗せる。

「……甘えん坊じゃのう。やれやれ、まいった」

 口ではそう言いながらも、源造の胸の奥には、久しく忘れていた柔らかな灯りがともり始めていた。

 こうして、“ぎこちない共同生活”はゆっくりと始まり、
 老人の生活に少しずつ色が戻りつつあった。

第三章 日々の営みが、生活を変えていく

 ハルが家に来てから、源造(げんぞう)の生活は静かに、しかし確実に変わっていった。

 朝は決まって夜明けとともに目覚める。以前は布団の中でぐずぐずと身体を起こすのに時間がかかったが、今は違う。枕元でハルが「くぅん」と鼻を鳴らすだけで、源造は自然と布団を抜け出した。

「はいはい、今起きるよ」

 自分でも驚くくらい、声が若返ったように思えた。

■ハルが作る新しい「リズム」

 散歩道は、いつもの公園を抜けて商店街の裏通りを回る小さなコースだ。
 冬の冷たい空気も、ハルと歩けば不思議と気にならなかった。

 ハルは周囲の匂いをかぎながら、時折立ち止まって源造を見上げる。
 その仕草がいちいち可愛くて、源造の頬は何度もゆるんだ。

「そんなに見るな。照れるではないか」

 犬に向かって照れる老人の姿に、通りがかった人々は思わず笑みをこぼした。

 散歩の後は朝食。
 ハルにはドッグフード、源造にはトーストと薄いコーヒー。
 そして新聞を広げると、足元でハルが丸くなって眠る。
 こんな当たり前の生活が、どれほど貴重で温かいものなのか――源造は日を追うごとにそれを噛み締めるようになった。

■小さな変化に気づく人たち

 商店街に行くと、顔なじみの店主たちが声をかけてくる。

「山崎さん、今日も散歩? ハルちゃん大きくなったねぇ」
「最近なんだか若返ったみたいじゃないの、山崎さん」

「なんだい、そんなことないよ」と源造は手を振るが、
 実のところ悪い気はしなかった。

 三浦ひさえのパン屋を通ると、ひさえは店の奥から笑顔で出てきた。

「山崎さん、今日はハルちゃん元気ね。ほら、新作のパン。味見してみます?」

 差し出された小ぶりのクロワッサン。源造は遠慮しながらも受け取り、
「ありがとうよ」と言うと、ひさえはどこか嬉しそうに目を細めた。

 そんなふうに賑やかに迎えられることが増え、
 源造は“ひとり”で外を歩いていたときには感じなかった温かさを覚え始めていた。

■動物病院の吉岡先生

 その週の終わり、源造はハルの健康状態が気になり、動物病院に連れていくことにした。
 動物病院の扉を押すと、白衣姿の吉岡先生が笑顔で出迎えた。

「こんにちは。おや、新しい家族ですか?」

「捨て犬でな。うちで預かることにしたんじゃ」

 診察台の上にハルを乗せると、ハルは少し不安そうに源造を見上げた。

「大丈夫、大丈夫。すぐ終わる」

 源造が背を撫でると、ハルは落ち着きを取り戻す。
 吉岡先生は優しく身体を触りながら、丁寧に状態をチェックした。

「健康状態は良好ですね。栄養さえしっかり取れば、元気に育っていきますよ」

「そうか。それなら安心した」

「山崎さん、犬を飼うのは初めてでしたっけ?」

「まあ、そうじゃな。わしも年だし、ちゃんと育てられるか不安でな」

 吉岡先生は穏やかに笑った。

「大丈夫ですよ。犬は、飼い主さんの心に寄り添ってくれますから。それに……山崎さんは、もうちゃんと“飼い主”の顔をしてますよ」

 その言葉に、源造は少し照れくさくなりながらも嬉しさを隠しきれなかった。

■「ひとりじゃない」と気づく瞬間

 診察を終え、帰り道を歩く。
 ハルはまだ不安が残っているのか、源造の足にぴったり寄り添って歩いた。

「お前はほんとに甘えん坊じゃの」

 源造は笑いながらハルの頭を撫でた。
 その瞬間、胸の奥にふっと温かいものが広がる。

 誰かに頼られること。
 誰かのために時間を使うこと。
 そのすべてが、源造の心をゆっくりと満たしていった。

 家に帰ると、ハルは安心したように敷物の上に寝転び、
 源造もその横に腰を下ろした。

「……ありがとな、ハル」

 何に対する“ありがとう”なのかは、自分でもはっきりわからなかった。
 ただ、確かなのは――

 源造は、もう孤独ではなかった。

 小さな犬が、その生活に色と温度を取り戻してくれたのだ。


第四章 心の穴が、少しずつ埋まっていく

 春の匂いが、街のあちこちに漂い始めていた。
 ハルが源造(げんぞう)の家に来てから、もう三ヶ月が過ぎていた。

 冬の間は細く頼りなかった身体も、今は毛並みがふんわりと柔らかくなり、足取りもしっかりしている。
 散歩の途中に出会う近所の人たちからは、「ずいぶん大きくなったね」と笑顔で声をかけられるようになった。

 源造もまた、以前と比べてずいぶん表情が変わっていた。
 顔のしわは増えているはずなのに、不思議と若々しい。

■妻の写真の前へ

 ある日の午後。
 陽ざしが柔らかく、窓辺の畳がほんのり暖まっている。

 源造はふと、仏間に足を向けた。
 そこには、亡き妻・澄(すみ)の写真が飾ってある。
 笑顔のやさしい写真だ。源造は長い間、その笑顔を見るのがつらくて、この部屋に寄りつかなかった。

 だが今日はなぜか、自然と手が動いた。
 ハルを連れて部屋に入ると、ハルは不思議そうに写真の前に座り、首を傾げている。

「……お前にも紹介しとくか」

 源造は写真を見つめながら、ゆっくりと言葉を続けた。

「この人は、澄。わしの大事な……家内じゃ」

 写真に向けて語りかけるのは、実に久しぶりだった。
 胸の奥にしまい込んだままでいた想いが、じんわりと溶けて出てくる。

「澄、見てるか。こいつは“ハル”という。捨てられておったのを拾ったんじゃ。えらい甘えん坊でな……わしをひとりにしてくれん」

 ハルは源造の膝に前足をのせ、写真を見上げてしっぽを振った。

 その姿に、源造は小さく笑った。
 仏間の空気が、ほんの少しだけあたたかくなったように感じた。

「澄……わしな、ほんとに情けないよ。お前が死んでから、何も手につかんかった。空っぽで、誰とも話す気になれんかった」

 言葉が喉の奥に詰まりそうになる。
 ずっと、胸の中のどこかが寒かった。

「でもな……ハルが来てから、不思議と毎日が動き出したんじゃ。こいつが、わしを連れ戻してくれたんかもしれん」

 写真の中の妻は、いつもの穏やかな微笑みを浮かべたままだ。
 けれど源造には、その微笑みが「よかったね」と言ってくれているように思えた。

 ハルが源造の手をぺろりと舐めた。
 その温かさに胸がじんわりと満たされていく。

「ありがとうな、澄。……それから、お前もありがとう、ハル」

■過去ではなく、今を生きるということ

 その日を境に、源造は少し変わった。
 これまで避けていた部屋を開け放ち、仏間に花を供えるようになった。
 妻の写真を前に、今日あったことをぽつりぽつりと話す時間も増えた。

 もちろん、その話を一番近くで聞いているのはハルだ。

「今日は美咲ちゃんにまた会ったぞ。ハル、お前のことを気に入っているらしい」
「三浦さんのパン、また貰ってしまった。困ると言いながら、嬉しいんじゃがな」

 話すたびに、ハルは「くぅん」と返事のように鳴いた。

 源造は少しずつ、“過去に置いてきた想い”と向き合えるようになっていった。
 それはまるで、固く閉じていた心に、小さな風穴が開き、そこへ春風が流れ込むような変化だった。

■ハルの“気配”に救われる日々

 ある日、源造はひどい頭痛に襲われた。
 年齢を重ねれば体調の波もあるが、久しぶりに強く痛み、布団に伏せってしまった。

「今日は……ダメじゃな……」

 そんな弱音を漏らす源造の横に、いつの間にかハルが寄り添っていた。
 ハルは源造の胸にそっと頭を乗せ、動かずに寄り添い続ける。

 その温かさは、薬よりも効いた。
 源造はその頭を撫でながら、どこか安心を覚えた。

「ハル……お前がおってくれれば、大丈夫な気がするよ」

 言葉にすると涙が出そうで、源造は目を閉じた。
 ハルはぴたりと寄り添い、静かな呼吸だけをそこに落としている。

 その夜、痛みは嘘のように引いた。

■失われていた“日常の喜び”が戻る

 次の日には体調も戻り、源造は再び散歩へ出かけた。
 空はどこまでも青く、風は冷たくも心地よい。

 ハルは元気いっぱいで、落ち葉を蹴散らしながら走り回る。
 源造はその後ろ姿を見て、胸が揺れるのを感じた。

「こんな日が、また来るとは思わなんだ……」

 妻を失ってから、毎日が灰色だった。
 時間だけが無意味に流れ、季節の移ろいさえ感じられなかった。

 けれど今は違う。
 ハルと過ごすことで、源造は“今日を生きている”実感を取り戻していた。

 このとき源造はまだ気づいていなかった。
 この小さな犬が、自分の人生の最後まで寄り添ってくれる存在になることを。
 そして、どれほど深い絆がふたりの間に芽生えようとしているのかを。


第五章 最期の冬、寄り添う影

 冬の足音が早く近づいてきた。
 十二月になると、源造の体は日に日に弱っていき、散歩の距離も短くなった。台所に立つだけで息があがり、椅子に腰かける時間が増えた。

 ロクは、その変化を敏感に察していた。
 源造が咳をすると、すぐに駆け寄り、膝の上に顎を乗せるようにして見つめた。散歩も、源造の小さな歩幅に合わせ、ゆっくり歩いた。

 ある夜、ストーブの前で湯のみを手にしていた源造は、ロクの背を撫でながら呟いた。

「ロク……お前には、本当に助けられたよ。ひとりきりのこの家が、どれほど明るくなったことか」

 ロクは源造の手を舐め、胸に頭を押しつけるようにして寄り添った。


 年の瀬が迫るころ、源造はとうとう外出を控えるようになった。
 美紀が煮物や味噌汁を届けに来てくれ、郵便配達の加藤も様子を頻繁に見に来た。

「源造さん、無理しないでくださいね」

「ああ、ありがとうよ。でもロクがいてくれるからな」

 源造の笑顔はどこか弱々しかったが、その横で寄り添うロクだけは確かな温もりを持っていた。


 雪がしんしんと降った、ある静かな夜。
 源造は布団に横になり、隣にロクが丸くなって眠っていた。

「ロク……わしは、もう少しお前のそばにいたかったが……」

 源造の手がロクの背に触れたまま、その指先から少しずつ力が抜けていった。
 ロクは異変に気づき、源造の胸に顔を埋め、低く鼻を鳴らした。

 夜明けまで、ロクは一度もその場を離れなかった。


 翌朝、美紀が訪れると、源造は穏やかな顔のまま息を引き取っていた。
 ロクは美紀の方をじっと見上げ、かすかにひと声、短く吠えた。

 それは、別れの告げる声だったのかもしれない。
 あるいは、源造を守りきった誇りの声だったのかもしれない。

 源造の葬儀の日、ロクはずっと祭壇の前から離れず、最後の瞬間まで主人を見送った。


最終章 ロクの歩む道

 源造が亡くなってから、季節はゆっくりと二度巡った。
 ロクは今も源造の家に暮らしている。
 町の人たちが自然と世話を分担し、美紀は毎朝餌を、加藤は散歩の声がけをするようになった。

「おはよう、ロク。今日も元気だね」
「よし、ちょっと歩きに行くか」

 ロクは、かつての主人に撫でられたようにしっぽを振り、素直に従った。


 春の陽気が町に戻ったころ、美紀が「ロクの会」と銘打った小さな集まりを開いた。
 源造をしのび、ロクの今後を皆で話し合う場だったが、結局は自然と源造の思い出話に花が咲いた。

「源造さん、ロクと一緒だとすごく嬉しそうだったな」
「ロクのおかげで、あの人は最後まで寂しくなかったんだよ」

 ロクはその輪の中心で、静かに座っていた。
 まるで皆の言葉を受け止めるように。


 夏の夕暮れ、ロクは歩道橋の下──源造に拾われた場所──へと歩いた。
 淡い橙の光が差し込み、コンクリートの地面に長い影が伸びる。

 ロクはそこで立ち止まり、風を嗅いだ。

 ふと、胸の奥があたたかくなった。
 源造の声が聞こえた気がした。

 ――ロク、いい子だな。
 ――また会えたな。

 ロクは空を見上げ、目を細めた。
 そこに源造を感じるように。


 ロクは年を重ね、足取りはゆっくりになったが、町の人々に囲まれて穏やかな日々を送った。

 ある秋の日。
 ロクは源造の仏壇の前に横たわり、静かに目を閉じた。
 苦しむ様子はなかった。

 まるで「ただいま。待たせたね」と言うかのように、源造の遺影の前で眠るように息を引き取った。


 ロクの死を知った町の人々は涙しながらも、どこかあたたかな気持ちで語り合った。

「源造さん、ロクはそっちに行きましたよ」
「また一緒に散歩してるだろうな」

 町の人々の胸には、ロクと源造の物語が深く刻まれていた。

 捨て犬だったロクと、孤独な老人だった源造。
 二人が出会って結ばれた絆は、町全体に優しさを広げ、今も語り継がれている。

 人はひとりでは生きられない。
 支え合うことで、初めてあたたかい日々が生まれる。

 ――この小さな町では今も、冬の星空の下、源造とロクが並んで歩く姿が語られ続けている。

星になったおかあさん
古びた神社の裏手、誰も気づかないような静かな場所に、小さな家族が暮らしていました。 お母さん猫はキジトラ模様の優しい瞳をした猫。三毛猫、サバトラ、そしてアメショー柄の三匹の子猫たちは、元気に遊んでは、お母さんに甘え、眠りにつくのでした。 お母さん猫は、決して多くを語るような猫ではありませんでした。

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