犯人は存在しないのかもしれない――東野圭吾『架空犯』が突きつける、人生と青春の後始末

こんにちは。ミサゴパパです。

東野圭吾さんの『架空犯』を読み終えて、しばらく本を閉じたまま動けませんでした。
ページをめくる手は決して重くなかったのに、読み終えたあとの気持ちは、ずしりと胸に残ったまま。
これは「犯人探し」を楽しむミステリーというより、人生の棚卸しを静かに迫られる物語だったように思います。

焼け落ちた屋敷から見つかる、都議会議員と元女優の夫婦の遺体。
肩書きだけを見れば、成功と華やかさに包まれた人生です。
けれど東野圭吾は、いつものようにその“表側”を丁寧に剥がし、
光が当たらなかった時間、語られなかった過去を、容赦なく読者の前に差し出します。

捜査を進める五代警部の感覚は、
「まるで幽霊を追いかけているようだ」。
この一文が、本作の本質を見事に言い表していると感じました。

犯人はいるはずなのに、輪郭が定まらない。
動機は見えるのに、実体がつかめない。
それはまるで、誰かが意図的に作り上げた“物語”を追わされているようでもあります。

ここで東野圭吾は、読者に問いかけてきます。
人はどこまで、事実よりも「納得できる物語」を信じてしまうのか。
そして、その物語に都合よく当てはめられた人物は、
いつの間にか「犯人」として固定されてしまうのではないか、と。

印象的だったのは、作中で繰り返し響く言葉――
「誰にでも青春があった。被害者にも犯人にも、そして刑事にも」。

五代警部もまた、決して感情を表に出すタイプではありません。
けれど彼の捜査の歩みには、年齢を重ねた者だけが持つ、
過去への距離感と、若さへの悔いのようなものが滲んでいます。

50代を過ぎ、家庭を持ち、仕事を続けてきた身として、
この言葉は他人事ではありませんでした。
若い頃の選択が、今の自分を形作っている。
同時に、あの頃には見えなかった景色を、今になってようやく理解している自分もいる。

『架空犯』に登場する人物たちは、
決して特別に悪い人間ばかりではありません。
ただ、それぞれが自分の青春を引きずり、
過去に折り合いをつけられないまま歳を重ねてしまった。
その結果が、取り返しのつかない形で噴き出してしまった――
そんな印象を受けました。

前作『白鳥とコウモリ』でも感じましたが、
このシリーズの東野圭吾は、
「正義」や「真実」を単純に描こうとはしていません。
むしろ、正しさが人を救わない瞬間があることを、淡々と描いています。

読み終えたあと、
「もし自分の過去が、誰かの人生を歪めていたとしたら」
そんな考えが、ふと頭をよぎりました。
もちろん、答えは出ません。
でも、この小説はその問いを抱えたまま生きること自体が、
大人になるということなのだ、と教えてくれる気がします。

『架空犯』は、派手などんでん返しを期待する人には、
少し地味に映るかもしれません。
しかし、人生の折り返し地点を過ぎた読者にとっては、
静かに心に染み込んでくる一冊です。

犯人は、もしかすると最初から“架空”だったのかもしれない。
けれど、過去と向き合えなかった人間の弱さは、
決して架空ではありません。

本を閉じたあと、
自分の青春と、今の暮らしを、少しだけ大切にしたくなる。
そんな余韻を残す、東野圭吾らしい一作でした。


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