
こんにちは。ミサゴパパです。
子どものころ、放課後の校庭で「じゃんけんグリコ」をした記憶がある。
「グーでグリコ、チョキでチヨコレイト、パーでパイナップル」。
階段やタイルを数えながら、ただ笑い合っていたあの時間は、何の裏もない“遊び”そのものだった。
けれど青崎有吾の『地雷グリコ』では、その無邪気な遊びが、まるで知能戦の舞台に変貌する。
「地雷を踏んだら十段下がる」という一つのルールが加わるだけで、単純な運の勝負は心理戦へと進化する。
そしてその中で描かれるのは、ゲームそのものよりも、人間の思考の癖や信頼、嘘、そして勝負の残酷さだ。
主人公・射守矢真兎は、勝負事に異様な強さを見せる女子高生。
彼女が挑むのは、「地雷グリコ」だけではない。
「坊主衰弱」「自由律ジャンケン」「だるまさんがかぞえた」「フォールーム・ポーカー」……。
どれも聞き慣れた遊びが少しだけ歪められ、そこに「罠」と「論理」が絡みつく。
読んでいると、ページをめくるたびに、子どもの頃の懐かしさと、冷たい頭脳戦の緊張感が同時に襲ってくる。
青崎作品らしく、論理構築の巧みさは圧巻だ。
一見ただの遊びが、終盤では論理パズルのように解きほぐされ、
「そう来るか!」と唸らされる。
だがそれ以上に印象的なのは、真兎というキャラクターが背負う“勝つことへの宿命”だ。
彼女の勝負には、単なる優越ではなく、どこか痛みがある。
勝負に取り憑かれた人間の孤独を、青崎有吾はきわめて静かに、しかし鋭く描き出している。
『地雷グリコ』は、単なるゲーム小説でも、謎解きのための論理遊びでもない。
それは、“遊び”という名のもとに人間の欲望と策略を描き出した、
現代的な寓話だと思う。
この物語を読み終えたとき、私はふと考えた。
あの頃の私たちは、本当に「ただ遊んでいた」のだろうか。
小さな勝ち負けの中に、すでに世界の縮図があったのかもしれない。
✍️ 読後の感覚は、「懐かしいのに怖い」。
遊びの中に潜む“人間の理性と本能”をここまで描ける作家は、今の日本ミステリ界でも稀有だと思う。
青崎有吾の名は、もう完全に「本格ミステリの次世代」を象徴している。

🧠 遊びの中にある“信頼”と“裏切り”
『地雷グリコ』を読んでいて何度も感じたのは、勝負の本質とは「相手をどこまで信じられるか」ということだ。
地雷を避けるために相手の動きを読む。相手の心理を探る。
だが、その行為自体が“疑う”ことであり、“信じない”ということでもある。
遊びとは、そもそも信頼の上に成り立つものだ。
「本気で叩かない」「ズルしない」「ルールを守る」——その前提があるからこそ遊びは成立する。
だが、青崎有吾はその前提を揺さぶる。
“勝ちたい”という欲望が、その信頼をどれだけ脆く崩していくかを描く。
読んでいて胸がざらつくのは、その構造が、現実社会の縮図のように見えるからだ。
「勝ちたい」「負けたくない」——その気持ちは誰にでもある。
だけど、勝負に取り憑かれた人間は、いつの間にか“遊び”を“戦場”に変えてしまう。
真兎が勝つたびに、読者は一瞬の爽快感と同時に、
「なぜ彼女はそんなにも勝ち続けねばならないのか」という問いに突き当たる。
🔍 青崎有吾という作家の“遊び心”
青崎有吾の作品は、常に“遊び”を扱っているようでいて、
その実、遊びの裏側にある論理や感情の機微を描く。
『体育館の殺人』ではロジック。
『風ヶ丘五十円玉祭りの謎』では日常と非日常の境界。
そして『地雷グリコ』では、“遊び”というもっとも無垢な行為に潜む、人間の欲望と理性をテーマにしている。
読んでいて感じるのは、青崎作品の一貫した「構築性」だ。
ルールを作り、その中で人間を観察し、
その行動から真理を導き出す——それはまさに、作家自身が“神”としてゲームを設計しているような感覚だ。
けれど彼は、その設計の中で、人間の弱さを見逃さない。
だからこそ、冷たくも温かい物語になる。
🎲 最後に——“遊び”の意味を取り戻す
『地雷グリコ』を閉じたあと、私は無性に昔の遊びがしたくなった。
ただの「じゃんけん」でも、「だるまさんが転んだ」でもいい。
そこにあるのは勝ち負けではなく、
“誰かと同じルールを共有する”という、根源的な楽しさだ。
真兎の戦いは、きっと「勝つための遊び」ではなく、
「生きるための遊び」だったのだと思う。
それは現代社会に生きる私たちにも重なる。
ルールの中で、他人を出し抜きながら、
それでも「遊び」を忘れないために――この小説は、そんな祈りのような物語でもある。
✍️ 締めの言葉
『地雷グリコ』を読んで、私は“論理”よりも“感情”を突き動かされた。
たとえどんなに知的なゲームでも、最後に勝つのは「人の心」だ。
青崎有吾の描く世界は、そんな当たり前のことを、
もう一度私たちに思い出させてくれる。





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